この病院で乳がんの手術をすることを迷っていました。
ここで乳がんの手術をしたら、3週間は病院にいなければならないからです。
あの大学病院では2週間ぐらいだと言われていました。
帰宅してから、あの知人(病院のナース)に電話を入れました。彼女に
「本当のことを言って」
とお願いしました。
彼女が医師と話したところでは、あまりにも落ち込んでいるので、病名は言えなかったそうです。早めに手術した方がいいと言っていたらしいのです。その上でこう言いました。
「友だちだから、ほんとのことを言うね。手術は、ここじゃない方がいいよ」
「 えっ、ここではだめなの? 」
「ここには放射線がないの。医療機器も十分ではないんだ。このケースなら、今後のことを考えて、できるだけあらゆる治療法が選択できた方がいいよ」
「放射線が必要になるんだ? 」
「そういうことも有り得ると思う。どんな状態になっても対応できるようにしておいた方がいいから」
「でも、紹介してもらったのにやっぱり私止めます、ってなったら○○さんの立場が・・・」
「そんなの、関係ないよ、そんなこと全然関係ない」」
「・・・・」
「あなたが助かることが一番大切なんだから。ここではない、どこか放射線もある病院にしておいた方がいいよ。そうすれば入院中から治療ができるから」
「・・・○○さんは、それでも大丈夫なの?」
「なに言ってるの? 私は大丈夫。私のことなんて全然関係ない」
・・・なんという思いやりだろう。彼女は私のことを友人なのでお願いします、と医師に頼んでくれていた。 そんな彼女の立場で、やっぱりここでは手術しません、ということになったら、彼女はこの病院には居づらくなるのは目に見えている。
この優しさは「本物」だと思った。
手術の内容もさることながら、・・・気になっていたのは、自分の手術のことよりも、むしろ子どものことだった。
子どもはまだ幼く、母親から離れられない。私の母が来てくれたところで、あの子の心を満たせそうにはない。ここは自宅からかなり離れているので、会えるとしても土・日になる。
せっかくここまで来たが、やっぱり、大学病院へ戻った方がいいのだろうか。
しかし、ここの医師は私にこう言った。
「大学病院は、やめておいた方がいいですよ。誰が切るかわかりませんからね」
・・・確かにそうだった。あの時、最初の大学病院で
「執刀の先生は、どなたになるんでしょうか? 」
と尋ねたが、
「誰でもできる手術ですから、それは心配いりません」
という返事だった。手術の内容も
「その時(ガン)の状況によって変わりますから、今は何とも言えません」
開けてみるまで、何も言えないと言われたわけで、・・・雲をつかむ話だった。
今、思うとそれが私を不安にさせていたように思う。
眠っている間に、私の了解なしに(説明なしに)いくらでも(もちろん、必要なだけだが)医師の判断で切り取られるという話が 、セカンドオピニオンを探させる大きな動機にもなった。
結論から言うと
、「ある本」で紹介されていた「オススメの病院」のこの病院に、私がなんのコネクションもなく行っていたら、たぶん私の心と体は、特に胸は今の形をなしてはいなかった。リンパ節もある程度とられてしまい、多くの人がそうであるように、私もその後遺症で苦しんでもいただろう。
そしてまた、私に幼く、 まだ私からまったく離れられない子どもがいたから、ここでの手術を思いとどまらせることができた。
もしも・・・私に子どもがなく、知り合いもいないこの病院でこの状況だったなら、温厚なこの医師の説得で、私はすべてをゆだねて乳がんの手術を受けていた。
ナースの彼女と、私の子どものおかげで、私はこのときの判断を誤らずにすんだ。
現在彼女は、別の病院で働いています。
辞めた理由を彼女は、(この病院が合わなかったから)と言っていたが、真相はわかりません。
私のことが、まったく影響なかったのか、それは彼女にしかわからないからです。
私は、彼女を(数少ない私の)恩人だと思っています。
そして、心の底から、今も変わらずに感謝しています。
そして実はもうひとり、この局面で私を救ってくれた医師がいました。
その話はまた次回に・・・。
きょうのひとこと
読んだ方も多いかも知れませんが、 MSNニュースより
ガーナ人のセイドゥ・サレイさん(31)は5年前の来日時「本当の孤独を感じた」と話す。外交官の父に「アジア通になれ」とマレーシアに送り出されたが、インド人青年から暴力的な差別を受けタイに移った。「タイ人は優しく、友達がたくさんできた」
次は日本語をと来日したが、露骨に自分を避ける人々にショックを覚えた。「日本人は僕がいないように振る舞い、インド人よりひどい」
電車で鬱々(うつうつ)としている時、父の言葉を思い出した。
「
孤独な時は周りを見ろ。必ずおまえを守ってくれる人がいる」
その通りだった。
「英語を話せないか、話せても僕に声をかける勇気がない。でも、目を見ると、僕に親近感を持つ人が1車両に必ず何人かはいる。それに気付いたら、心が落ち着いてきた」。以来、日本も悪くない、と思えるようになった。